沿革

 

本地域のかんがい用水は、中田沼(A=540ha)、小中田沼(A=42ha)の貯水池を水源とし、1,538haにかんがいされていた。中田沼は明和7(1,771)に北上川右岸大泉小名倉山脚に潜穴を掘削して導水し、小中田沼は文政3(1,821)岩手県永井村地内の高倉山渓谷から沢水を流入させて確保していた。

 

 その後、河床変動・潜穴底土砂堆積によりかんがい用水不足となり、水争いが頻発するようになる。

 

明治39年に郡営により中田沼を開墾すべく大泉揚水機場設置の事業を着手し、明治41年完成し、北上川を取水源として用水が開始された。明治40年に中田沼開拓工事(A=461ha)が起工され、明治45年開拓工事が竣工された。昭和2年には大泉揚水機場に電気が導入され、モーター、ポンプが更新される。

 

昭和8年には畑地開田事業により500ha余りを開田し、浅水に水越揚水機場を設置し、かんがい用水を始めた。

 

その後、両揚水機場の老朽化による機能低下と開田ブーム等による面積増で用水の絶対量に不足を生じ、昭和47年に国営かんがい排水事業「中田地区」が開始され、昭和62年までに大泉・水越の両揚水機場、及び幹線用水路の新設改修が行われている。また、両機場については基幹水利施設管理事業が平成 8年に導入された。

 

一方、五ヶ村堀排水地区については吉田村に樋管が設置されていたが、老朽化で朽壊したため明治45年改造、その後大正12年朽壊した木造樋管を鉄筋混凝土に改造移転する。

 

昭和12年にそれまで迫川へ自然排水されていた五ヶ村堀地区へ排水機場を設置したが、迫川等周囲の状況の変化により低地帯において連年湛水防除被害が著しく、昭和33年から昭和43年にかけて五ヶ村堀排水機場(高位部・低位部)と幹線排水路の新設改修が行われた。

 

昭和54年から昭和60年に県営湛水防除事業として五ヶ村第2排水機場新設と幹線排水路が改修工事された。

 

また、高位部及び低位部排水機場は、既に築造後40年以上経過し、機械設備等の老朽化が著しいため、平成22年度に県営かんがい排水事業「五ヶ村堀地区」として採択され、低位部・高位部両排水機場を廃止し統合機場を設置する計画で、現在本格的工事が進められている。

 

石森排水地区は、中田沼開拓に伴い排水は大水門から北上川へ自然排水されていたが効果的でなく、昭和20年に県営事業で旧中田沼の排水を夏川に排除すべく二ッ木排水路が造られたが、所期の目的が挙がらなかったため湛水被害が甚大で、昭和30年より昭和45年にかけ県営事業により糠塚第2、西田第2、細谷の3排水機場と幹線排水路が新設改修された。

 

昭和57年に国営かんがい排水事業「中田地区」の計画変更において糠塚・西田両排水機場と幹線排水路が昭和62年までに改修される。

 

県営湛水防除事業で、昭和53年から昭和61年に「石森地区」で糠塚第2、西田第2排水機場・導水路が改修、平成6年から平成11年にかけて「細谷地区」で細谷排水機場、並びに幹線排水路が改修される。

 

 県営圃場整備事業は昭和54年浅水地区から始まり、11地区が完了しパイプライン方式は9地区、開渠方式が3地区である。